頂点と軋轢:成功の代償
前作『ファイアボール』で全英1位を獲得し、世界的なハードロックバンドとしての地位を確固たるものにしたディープ・パープル。しかし、その栄光の裏では、メンバー間の緊張がかつてないほど高まっていました。特に、音楽的リーダーシップを巡るリッチー・ブラックモアとイアン・ギランの対立は深刻化し、バンドの雰囲気は常に張り詰めていました。
過密なツアースケジュールは彼らを肉体的にも精神的にも追い込み、創造的なエネルギーを削いでいくかのように思われました。しかし、そんな状況下でこそ、彼らの才能は奇跡的な化学反応を起こすことになります。
運命の地、モントルーへ
次なるアルバムの制作にあたり、バンドは日常の喧騒から離れ、集中できる環境を求めました。そこで選ばれたのが、スイスのレマン湖畔に佇むリゾート地、モントルーでした。ローリング・ストーンズのモービル・ユニット(移動式レコーディングスタジオ)を借り、モントルー・カジノのホールでレコーディングを行う計画でした。
1971年12月、バンドはモントルーに到着。穏やかな湖畔の風景とは裏腹に、彼らの前には波乱に満ちたレコーディングが待ち受けていました。
「スモーク・オン・ザ・ウォーター」誕生秘話:カジノの火事
レコーディング開始前夜、フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのコンサートがモントルー・カジノで行われていました。その最中、観客の一人がフレアガン(信号弾)を天井に向けて発射したことが原因で火災が発生。カジノは瞬く間に炎に包まれ、全焼してしまいます。
ディープ・パープルのメンバーは、宿泊先のホテルの窓からその光景を目の当たりにしました。レマン湖の湖面に煙が立ち込める幻想的とも言える光景は、彼らに強烈なインスピレーションを与えます。この出来事と、その後の困難なレコーディングの様子を歌にしたのが、ロック史に残る不朽の名曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター (Smoke on the Water)」でした。
カジノが使えなくなったため、バンドは急遽レコーディング場所の変更を余儀なくされます。いくつかの場所を転々とした後、最終的にグランド・ホテルの廊下や部屋を使ってレコーディングを行うことになりました。限られた時間と劣悪な環境の中、彼らは驚異的な集中力で楽曲制作を進めていきます。
『マシン・ヘッド』:ハードロックの完成形
1972年3月、苦難の末に完成したアルバム『マシン・ヘッド (Machine Head)』がリリースされます。このアルバムは、ディープ・パープルのキャリアにおける最高傑作の一つとして、そしてハードロックというジャンルの金字塔として、今日まで語り継がれています。
「スモーク・オン・ザ・ウォーター」はもちろんのこと、疾走感あふれるオープニングナンバー「ハイウェイ・スター (Highway Star)」、ヘヴィなリフが印象的な「スペース・トラッキン (Space Truckin')」、ブルージーな「レイジー (Lazy)」、そして美しいバラード「ウェン・ア・ブラインド・マン・クライズ (When a Blind Man Cries)」(オリジナル盤には未収録、後のリマスター盤に収録)など、捨て曲なしの名盤となりました。
メンバー間の緊張関係は依然として存在していましたが、このアルバムではそれが奇跡的なバランスで昇華され、各メンバーの個性が最大限に発揮されています。リッチー・ブラックモアの鋭利なギター、ジョン・ロードの荘厳なキーボード、イアン・ギランの魂のシャウト、ロジャー・グローヴァーの的確なベース、そしてイアン・ペイスのタイトなドラムが完璧に融合し、ハードロックの一つの完成形を提示しました。
次回予告
第7章では、『マシン・ヘッド』で頂点を極めたディープ・パープルが、日本での伝説的なライブ盤『ライヴ・イン・ジャパン』を生み出すまでの道のりと、その裏でさらに深刻化していくバンド内の亀裂について触れていきます。栄光の日本公演で何が起こったのか? ご期待ください!