『ライヴ・イン・ジャパン』という置き土産
日本での伝説的な公演を収録した『ライヴ・イン・ジャパン』は、ディープ・パープル マークIIラインナップの頂点を捉えた作品として、世界中で絶賛されました。しかし、その圧倒的な成功とは裏腹に、バンド内部の人間関係はもはや修復不可能な状態にまで悪化していました。
特に、音楽的志向の違いと個人的な確執が深刻だったリッチー・ブラックモアとイアン・ギランの関係は、破綻寸前でした。ツアー中もほとんど言葉を交わさず、ステージ上でのみ火花を散らすような状況が続いていました。
イアン・ギランとロジャー・グローヴァーの脱退表明
1972年末、ついにイアン・ギランがバンド脱退の意向を表明します。長年のツアー生活による疲労と、リッチー・ブラックモアとの対立が限界に達したことが主な理由でした。ギランの脱退は、バンドにとって大きな衝撃であり、黄金期を支えたヴォーカリストの不在は計り知れない損失でした。
さらに、ギランの盟友であり、バンドのサウンドを支えてきたベーシストのロジャー・グローヴァーもまた、リッチー・ブラックモアからのプレッシャーやバンド内の不穏な空気に耐えかね、ギランに追随する形で脱退を決意します。
1973年6月29日、大阪厚生年金会館での公演(奇しくも『ライヴ・イン・ジャパン』の成功を受けての再来日公演でした)が、イアン・ギランとロジャー・グローヴァーにとってディープ・パープルでの最後のステージとなりました。ハードロック史に一時代を築いたマークIIラインナップは、こうして静かにその幕を閉じたのです。
新たなる血の探求:マークIIIへ
ギランとグローヴァーという二つの大きな柱を失ったディープ・パープルでしたが、残されたリッチー・ブラックモア、ジョン・ロード、イアン・ペイスはバンドの存続を決意します。彼らは新たなヴォーカリストとベーシストを探し始めました。
ヴォーカリストとして白羽の矢が立ったのは、当時無名に近かった青年、デヴィッド・カヴァデールでした。彼のブルージーでソウルフルな歌声は、リッチー・ブラックモアが志向する新しい音楽性に合致すると判断されました。
一方、ベーシストには、トラピーズというバンドでヴォーカルも兼任していたグレン・ヒューズが選ばれました。彼の卓越したベーステクニックと、ソウルフルなハイトーンヴォイスは、バンドに新たな音楽的要素をもたらすことが期待されました。
マークIIIの誕生:ファンクとソウルの導入
1973年後半、デヴィッド・カヴァデールとグレン・ヒューズを迎えた新生ディープ・パープル、通称「マークIII」が始動します。この新しいラインナップは、従来のハードロックサウンドに、ファンクやソウルといったブラックミュージックの要素を大胆に取り入れ、よりグルーヴィーで洗練された音楽性へと変化を遂げていきます。
二人のヴォーカリストを擁するという新しい試みも、バンドのサウンドに深みと広がりを与えました。リッチー・ブラックモアのギターも、よりブルージーでファンキーなアプローチを見せるようになり、ジョン・ロードのキーボードも新たなサウンドスケープを描き出しました。
次回予告
第9章では、マークIIIラインナップによる最初のアルバム『紫の炎 (Burn)』の制作と、その音楽性が当時のロックシーンに与えた影響、そしてバンドが新たな黄金期を迎えようとする様子を追います。二人のヴォーカリストが織りなすハーモニーと、より洗練されたハードロックサウンドとは? ご期待ください!