崩壊へのカウントダウン:最後のツアー
アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』をリリースした後、ディープ・パープル マークIVはワールドツアーを開始します。しかし、そのツアーは困難を極めました。トミー・ボーリンとグレン・ヒューズの薬物問題は悪化の一途をたどり、ライブパフォーマンスの質は日によって大きく変動しました。
特にアジアやイギリスでの公演では、観客からブーイングが起こるほどの酷い演奏の日もありました。トミー・ボーリンは薬物の影響でギターがまともに弾けず、グレン・ヒューズは支離滅裂なMCを繰り返すなど、バンドの状態は最悪でした。かつて世界最高のライブバンドと称された彼らの姿は、そこにはありませんでした。
デヴィッド・カヴァデールは、ステージ上で泣きながら謝罪したこともあったと伝えられています。ジョン・ロードとイアン・ペイスは、バンドの創設メンバーとして、この惨状に心を痛め、ディープ・パープルという偉大な名の権威が失墜していくのを黙って見ていることはできませんでした。
1976年3月15日、リヴァプール:最後の夜
運命の日となったのは、1976年3月15日、イギリスのリヴァプール・エンパイア・シアターでの公演でした。この日のライブもまた、決して満足のいく内容ではありませんでした。ステージを終え、楽屋に戻ったメンバーたちの雰囲気は重く、誰もが限界を感じていました。
ついに、ジョン・ロードとイアン・ペイスが、デヴィッド・カヴァデールに「もうこれ以上は続けられない。これがディープ・パープルだ」と告げ、バンドの解散を決意します。カヴァデールもその決断に同意し、ここにハードロックの歴史を築き上げた巨星、ディープ・パープルはその8年間の活動に終止符を打つことになったのです。公式な解散発表は、数ヶ月後の7月に行われました。
天才ギタリスト、トミー・ボーリンの悲劇
バンド解散後、メンバーはそれぞれの道を歩み始めます。しかし、マークIVに最後の輝きと混乱をもたらした天才ギタリスト、トミー・ボーリンを悲劇が襲います。
彼は自身のバンドを結成し、ソロ活動を精力的に行っていましたが、薬物依存からは抜け出せずにいました。そして1976年12月4日、ジェフ・ベックのライブの前座を務めた後、マイアミのホテルの部屋で亡くなっているのが発見されます。死因はヘロインの過剰摂取でした。享年25歳、あまりにも早すぎる天才の死でした。
次回予告
第15章からは、解散後のメンバーそれぞれの活動を追います。リッチー・ブラックモア率いるレインボーの快進撃、デヴィッド・カヴァデールが結成したホワイトスネイクの成功、そしてイアン・ギラン・バンドなど、ディープ・パープルのDNAを受け継いだバンドが、ロックシーンに新たな歴史を刻んでいきます。8年間の沈黙の時代の物語です。ご期待ください!